わたしが10代の終わりから20代の始めだったころ、父は仙台に単身赴任していた。ある年の夏休み、それまではいつも電車で出かけたのに、助手席に母を乗せて、初め高速道路を使って車で父の元へ遊びに行った。弟はアルバイトがてら、一足先に仙台入りしていた
瑪姬美容。
慣れない運転による緊張と肩こりで途中から気持ち悪くなり、着いた途端に吐いてしばらく起き上がれないほどだったのが今でも忘れられない。それ以降、高速道の運転はしていないくらいだ。
そんなわたしに代わって、免許を取ったばかりだった弟がハンドルを握り、翌日は家族4人で宮古まで出かけた。地理で「リアス式海岸」を習ってからずっと、行ってみたい場所のひとつだったのだ。
宮古の宿では食べきれないほどのお刺身を供され、もったいないからと弟がたくさん食べて、後で気持ち悪くなっても、もったいないからと言って吐こうとせずにのたうち回っていたのは、今でも時々繰り返す笑い話だ
瑪姬美容。
次の日は、宮古から海岸沿いをずっと南下して気仙沼を目指した。が、道路が渋滞して両親はなにやら険悪なムードになるし、やっと辿り着いた民宿では、遅かったからと勝手にキャンセル扱いになっていて、食事もないと言われた。
それでも、大広間のような座敷で、部活の合宿らしい学生に混じって何かしらの食事をさせてもらった。覚えているのは、お盆に殻ごとごっそりと乗せて出されたウニだ。今なら歓喜の声をあげただろうけれど、当時はただその乱暴さと形状の気持ち悪さが先に立ち、心細さと疲れが相まって、不機嫌な夕食だった。
もういいから帰ろうよと、結局そこには泊まらずに、再び海岸沿いを走らせて夜遅く仙台に戻ったのだった
瑪姬美容。
先日、家族で会う機会があり、今回の地震の話題から、その夏休みの話になった。その時に父が「ちょうどあの辺だった」と口にした町の名前を、わたしは今、思い出せない。耳が拒否したのか、単に忘れっぽいのか、覚えていない。それが地図のどの辺りなのか、だから、はっきりとは分からない。分かりたくない。